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虚像の道化師
最近東野圭吾の作品が好きでよく読んでいる。
学生時代は、一度読んだらはまってしまうだろうからと思い、避けてきた。
しかし働き出して、ついにそのパンドラの箱を開けてしまったのだった。
純粋に面白くて、気分転換には最高の作品ばかりだ。

ガリレオシリーズの文庫版の最新作が出たのでさっそく読んでいる。
ガリレオの、科学に対して一切の妥協を許さない姿勢にはいつも頭が下がる。
作中で、ものすごく共感したセリフがあったので紹介する。
(物語の筋には関係ないのでいわゆる「ネタバレ」にはならないはず)

『・・・現象を分析するには、すべての可能性を探る必要がある。つまり誰かがアイデアを出した場合には、とりあえずはそれを尊重しなければならない。検証することもなく、ただ自分の考えや感覚と合わないからというだけの理由で人の意見を却下するのは、向上心のない怠け者のやることだ』
(中略)
『・・・人の意見の耳を傾け、自分のやり方や考え方が正しいのかどうかを常にチェックし続けるのは、肉体的にも精神的にも負担が大きい。それに比べて、他人の意見には耳を貸さず、自分の考えだけに固執しているのは楽だ。そして楽なことを求めるのは怠け者だ』

こんなセリフをさらりとガリレオに言わせてしまう、東野圭吾はすごい。

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積ん読。 | 23:42:39 | トラックバック(0) | コメント(0)
継続は力なり
今日、時間が空いた時に尊敬するある先生のブログを読んでいました。

その先生はものすごい仕事量で、通常の仕事のほかに、講演でいろんなところを飛び回ったり、本をほぼ月1冊のペースで出版したり、、、とにかくものすごい方なのですが、それでもブログは欠かさず更新している。やはり、ものすごいの一言に尽きます。

やっぱり時間の使い方が上手なのだと思います。そういえば、時間の使い方についての本も書いてました。先生がやっていることはとても単純で、空いた時間を有効活用してできることをする、ただそれだけ。なんだ、そんなことか、とつい言ってしまうのだけど、それがなかなか難しくて、悩みながら歩んでいます。

それでふと思ったのは、僕らは時間すらも与えられていて、適切に管理するよう任されているということ。いかに主のために時間を用いられるか、それがキリスト者としての生き方につながるのだと思いました。

時間を上手く使う訓練の場として、このブログを改めてスタートしてみようかな、と思っています。

ひとりごと。 | 22:58:23 | トラックバック(0) | コメント(0)
転回点
僕の教会では、今年、教会員の証集を発行することに取り組んでおりまして。
締め切りを過ぎましたがようやく書けたので、ここにも掲載しておきます。
編集の方々、遅れてしまい、本当に申し訳ありませんでした。

「転回点」

高津教会に通うようになり、信仰を与えられて洗礼の恵みにあずかった経緯については、前回の証集に載せた。キリスト者として歩み始めたわけだが、その頃の僕の信仰は、周りの信仰者のいいとこ取りでしかなく、どこか軽々しさを伴ったものであった気がする。どうすればキリスト者として模範的に見えるかを「賢く」察知しながら、時に感謝をささげ、時に悔い改める、というポーズをとっていただけであったとさえ思う。そのような「ミッション」におおむね成功していた僕が、どのように徹底的に打ち砕かれ、回心へ導かれたか、今回記していきたい。

2009年の秋から冬にかけて。僕はどうしようもなく疲れ果て、生きる意味を徐々に見失っていった。大学で医学の勉強をし、教会に通って礼拝に出席し、という生活を続けてはいたものの、自分の心が神から離れていくのがよくわかった。しかし、皆からどう見えるか、を気にしていた僕は、その生活を続けるしかなかった。僕は死を想った。そんな折に参加したのが、インマヌエルのユースステーションだった。誘われたから仕方なしに参加しただけであったが、そこで僕は人生を変える出会いをした。

それは、みことばとの出会い。集会で「また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。」というローマ人への手紙6章13節のみことばが語られたとき、僕は大きく揺さぶられた。苦しみや悲しみをすべて人のせいにし、自分の罪を振り返ることなく、心の赴くままに好き勝手に歩んでいたそれまで。脱出するすべを神に祈り求めることなく、まさに自分の手足を罪にささげ続けてきたことに気付き、しかし、それでも待ち続け、用いようとしてくださる神である主を知った。そのあわれみに心が砕かれ、悔い改めの祈りをした。

自分自身を神にささげたいと心から願ったのは、あれが初めてだと思う。キャンプから帰ってきて、徐々に回復の道を歩むことがゆるされ、ともかくもキリスト者として「自らの足で」ぎこちなく歩み始めた。その後は素晴らしい経験をいくつも通らされ、キリスト者として少しは成長させていただいたのではないかと思っているけれど、振り返ってみれば、これは大きな転回点であった。道に迷ったときにはいつでもここに戻り、再び歩みを始めていきたい。

教会。 | 22:28:19 | トラックバック(0) | コメント(0)
ハガイ書聖書講解その2
ハガイ書聖書講解のつづき。
夜の集会から。

ハガイ書2:1-9
主のみことばがあったのがダリヨス王の第2年の第6の月の1日。
そして神殿再建工事にとりかかったのが、第6の月の24日。
3週間と実に素早い対応であったが、その後、民のやる気は急速になくなっていった。

人々の心をくじいたのは、過去の栄光との比較であったようだ。
「しかし、祭司、レビ人、一族のかしらたちのうち、最初の宮を見たことのある多くの老人たちは、彼らの目の前でこの宮の基が据えられたとき、大声をあげて泣いた」(エズラ3:12)
「あなたがたの目には、まるで無いに等しいのではないか」(3節)
人々は今の神殿を見て、イスラエルの未来はないのではないかと思ったのであった。

しかし、「仕事に取りかかれ」(4節)、あきらめないで続けよ、と神は語った。
その後に続く言葉で、神は、どのように神殿再建を行うのかについてはまったく語っていない。
しかし、なぜ続けなければならないか、その理由を述べている。
それが、「わたしはあなたがたとともにいるからだ」(4節)であった。

そうは言っても、生活に困窮し、散々に疲れ果ててしまった民の耳には届かない。
本業の仕事もしなければならず、周辺諸民族の妨害にも遭い、工事は遅々として進まないからだ。
「荷をになう者の力は衰えているのに、ちりあくたは山をなしている。私たちは城壁を築くことはできない」(ネヘミヤ4:10)
なぜ自分たちはこのような労苦を引き受けなければならないのか、という思いが蔓延していた。

そのような民に対して、続けて神はこのように語った。
「あなたがたがエジプトから出て来たとき、わたしがあなたがたと結んだ約束により、わたしの霊があなたがたとともにいるからだ」(5節)
「わたしの霊」とは、聖霊の内住の強調である。
〜あなたがたの肉体的な労苦、精神的な悩みについては、わたしがあなたのうちにあって、つぶさに知っているのだ。

神は、救いのみわざを完成させるためにいつも働いている。私たちを通して、私たちを超えて。
「ですから、私たちは勇気を失いません、たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」(第二コリント4:16)
私たちの現実を包み込むようにして、神の現実がある。

「この宮のこれから後の栄光は、先のものよりまさろう」(9節)
「栄光」とは、神の臨在の目に見えるあらわれ。
イエスこそ神の栄光そのものであり、そのイエスがこの第二神殿に何度も足を運んでくださった。
この事実ゆえに、このハガイの預言は成就したのである。

神殿は再建工事が始まってから約100年後に完成した。
そして約500年後にイエスが現れ、この神殿においてその栄光を示された。
神は、私たちの労苦をもとにして、ご自身の栄光を現してくださる方である。
それは、ずっと先のことかもしれないが、必ず栄光を現してくださる。

KGK。 | 21:35:06 | トラックバック(0) | コメント(0)
ハガイ書聖書講解その1
GNC2日目。
この日のメインは大沼元総主事によるハガイ書聖書講解であった。
全2回のメッセージ。これも、圧巻だった。

まずは朝の集会から。

ハガイ書の歴史的背景
バビロン捕囚によって、ユダの民は異国での生活を余儀なくされた。
その後、ペルシヤがバビロニアを滅ぼし、イスラエルへの帰還と神殿再建の許可が下りた。
神殿再建工事が開始されたが、周辺諸民族の妨害に遭い、中断してしまう。
18年の中断期間を経て、神殿再建工事が再開された。このとき、ハガイの預言があった。
民の心は奮い立たされたが、その後も工事の再開と中断を何度も繰り返した。
神殿(第二神殿)が完成したのは、ネヘミヤが総督に就任した後であった。
実に、神殿再建の許可が下りてから約100年後であった。

ハガイ書1:1-15
「あなたがたの現状をよく考えよ」(5、7節)
あなたの道に、あなたの心に、思いを留めよ、というのが直訳。
神が私をどう見てくださっているかを知るということ。
それはみことばを通してでしか分からない。

神がイスラエルの民をどう見ていたか。
「万軍の主はこう仰せられる。この民は、主の宮を建てる時はまだ来ない、と言っている」(2節)
「この宮が廃墟となっているのに、あなたがただけが板張りの家に住むべき時であろうか」(4節)
「あなたがたは、多くの種を蒔いたが少ししか取り入れず、食べたが飽き足らず、飲んだが酔えず、着物を着たが暖まらない。かせぐ者がかせいでも、穴のあいた袋に入れるだけだ」(6節)
あなたがたはむなしさを覚えているのではないか、と神は言っている。

では民はどうすればいいのか、神は明確に示してくださった。
「山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ。そうすれば、わたしはそれを喜び、わたしの栄光を現そう。主は仰せられる」(8節)
まことの神である主は、本来は、私たちが建てた神殿など必要としていない。
それでは、なぜこのようなことを言うのか。

その理由は、「彼らがわたしのために聖所を造るなら、わたしは彼らの中に住む」(出エジプト記25:8)というみことばで示してくださっている。
天地万物を造ってくださった方が、私たちが建てた神殿に身を低くして降りて来てくださるということ。
それは、わたしのために生きよ、わたしとともに生きよ、という呼びかけに他ならない。

私たちを支配しているのは天地を造られた神である。
そのことを体験するのは、その呼びかけに応答する時だけである。
「ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が、主にあって無駄でないことを知っているのですから」(第一コリント15:58)
これこそが、この箇所の中心聖句と言っていい。

イスラエルの民は挫折を繰り返しながら神殿再建工事を継続した。
それはまったく無駄ではなかった。時間はかかったが、約100年後、ついに神殿は完成した。
神は「わたしは、あなたがたとともにいる」と、いつも神の臨在を示してくださる(13節)
そして、いつも民の心を奮い立たせてくださるのである(15節)

KGK。 | 21:31:02 | トラックバック(0) | コメント(0)
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